萩往還トレッキング@ 2016.5.25

唐樋町 〜 明木市

はぎおうかん 山口県萩市



歴史の道 萩 往 還

萩往還は、慶長9年(1604)の萩城築城後、城下町萩(萩市)と瀬戸内海の港 三田尻(防府市)をほぼ直線で結ぶ街道として開かれました。全長53kmです。 この道は、殿様の「お成り道」(参勤交代道)として整備されましたが、山陰と 山陽を結ぶ陰陽連絡道として、江戸時代の民衆の重要な交通路となりました。 また、幕末には、維新の志士たちが往来し、歴史の上で重要な役割を果たしました。

往還には、宿駅や一里塚、往還松などの交通施設が設けられ、また殿様一行の交通に 伴う各種の施設も造られました。「茶屋」は、殿様の休泊用の施設で、山口・三田尻 は宿泊用として、佐々並市は休憩用として設置されました。 「建場」・「駕籠建場」は、殿様の休憩施設で、悴坂(かせがさか)・釿切(ちょうなぎ)・日南瀬(ひなたせ)・一ノ坂・柊(ひいらぎ)・鯖山(さばやま)峠の見晴らしの良い場所に設けられました。また、殿様の一行の施設に対し、庶民の施設である「茶屋」は、悴坂・六軒茶屋・鯖山峠などにあり、旅人の疲れを癒しました。

萩往還の行程をを簡単に紹介します。起点である萩城下の中心唐樋の札場を出た道は、 橋本川に架かる大橋を渡り、大屋の集落、悴坂一里塚跡、大屋刑場跡、悴坂駕籠建場跡 などの遺跡があります。明木市から佐々並市までは、一升谷・釿切の山道が続きますが 、ここには、石畳が4ヶ所に残っています。 佐々並市から山口の間には、往還最大の難所の一ノ坂があります。萩往還の最高位にある 板堂峠は防長2か国の国境で、この一帯には江戸時代初期に銀山が営まれていました。峠を下ると 萩往還の中間地点である一ノ坂一里塚や一ノ坂建場跡(六軒茶屋) 山口から鯖山峠を経て宮市に向かい三田尻に至ります。防府天満宮の門前町である宮市は、 古くから商業で栄えた町で、ここに本陣を勤めた兄部家の建物が残っています。三田尻には 御茶屋跡、御船倉跡、住吉神社石造灯台跡があります。御船倉は、毛利藩の水軍(御船手組) の本拠地で、殿様の参勤交代の際にはここから御座船が出航しました。(田町アケード内にある解説より)

歩行距離 8.9km
所要時間 3時間00分
累積標高差 (+) 258m  (-) 197m
コース アトラス萩駐車場:11:05 → 橋本大橋11:15 → 萩駅11:25 → 涙松遺址12:05
  → 道の駅萩往還12:45 → 坂駕籠建場・茶屋跡13:00 → 萩往還のお地蔵様13:30
→ 明木バス停14:05 

吉田松陰や高杉晋作など勤王の志士たちが歩いた萩往還、いつかは歩いてみようと思っていたが、ついに実行することにする。全長は53kmあるので、いちおう5回に分けて歩く計画である。これまで山登りが主だったが、昨秋、長門峡を歩き頂上を目指さないトレッキングも面白いことに気づく。歩いていくにつれ移り変わる景色を楽しみ、道沿いの歴史について学ぶのもいいではないか。

昔の人はつくづく偉いと思う。今のようなトレッキングの装備もない時代に、旅人は草鞋を履いて、着物は汗で汚れ、日焼けで顔は真っ黒になったに違いない。萩から江戸まで行くの何日かかっただろうか。今でいえば、まるで遠い外国の未知の世界にでも行くような気分であったことだろう。その間の宿泊費用はかなりの額になるはずである・・・。江戸時代の旅人の気分になって歩いてみよう。

萩往還の基点として田町の唐樋の札場跡から出発しなかればならないのであるが、3日前に萩市内の観光をしたときアトラス萩から唐樋の札場跡まで歩いているので、今日はアトラス萩の駐車場をスタート地点とする。装備は、ペットボトルと弁当とカメラだけである。11:05アトラス萩前の駐車場から大通りに出る。金谷天満宮を左に通り過ぎ橋本橋を渡り萩駅に立ち寄る。古いレトロな駅舎内は、入館無料のミニ鉄道博物館になっている。1863年長州ファイブの一人としてイギリスに密航留学し、「日本の鉄道の父」となった井上勝に関する展示が多くある。

長州藩の執政・周布正之助が人選した長州ファイブと呼ばれる5人の若者とは、伊藤博文、井上馨、遠藤謹助、井上勝、山尾庸三である。伊藤博文は初代内閣総理大臣になり、その後3回も総理大臣を務めるという明治の大政治家になった。井上馨も外務、内務、大蔵大臣を歴任し、あと一歩で総理大臣になるところであったが、組閣に必要な人材を得ることができず断念している。伊藤と井上は、身分の差を越え仲のいい友人同士であった。長州藩と四ヶ国連合艦隊が戦うという変事を知り、攘夷戦がいかに無謀であることを説くため、六ヶ月という短い留学期間で二人とも急遽帰国し和平交渉に尽力した。この行動がその後の二人の運を開いていくきっかけとなる。他の三名はそのまイギリスに留まり五年間の留学期間を全うし、遠藤謹助は造幣局長、井上勝は日本の鉄道の発展に力を尽くし鉄道長官になった。山尾庸三は工部卿など工学関連の重職に就いた。

萩駅から東側に進み国道186号線を横切りドラッグストアー・コスモスの前を過ぎ中国電力のある通りを下る。途中、井上剣花坊の石碑がある。萩出身の川柳作家で、川柳の近代化を推進し俳句の正岡子規と並び称されるという。石碑には「幾億の星の中なる夫婦星」と刻んである。指導標に沿い大屋川沿いの田んぼの中の道をあるいていくと左側に慰霊塔がある。解説がないので何のものかは分からない。 大屋の集落を抜け緩やかな舗装道の上りになる。右に萩往還梅林公園を見送りしばらくすると涙松の遺祉がある。この辺で道は左に折れ萩の街が見えなくなった地点で、昔の旅人は松並木の間に見え隠れする萩の街並みを惜しみ涙を流した。吉田松陰は、安政の大獄で江戸へ送られるとき「かえらじと思いさだめし旅なれば、一入(しお)ぬるる涙松かな」と詠んだ。

一旦国道をの下をくぐり、竹林と杉林に囲まれ霊気を感じさせそうな石畳を歩く。この石畳の途中には、1759年我国で最初に女体の解剖が行われた大屋刑場跡と悴(かせが)坂の一里塚がある。この塚は当時のまま残っている珍しいものである。石畳を上り、道の駅「萩往還」の前の東屋のある駐車場にでる。ここで一休みしてコンビニ弁当を食べ後、地下道を抜け国道を横切り、道の駅「萩往還」に達する。ここ萩往還公園には8名の銅像が建っている。吉田松陰の両横には、松下村塾の双璧である高杉晋作、久坂玄瑞が、木戸孝允の両横には山縣有朋と伊藤博文、他に天野清三郎(渡辺嵩蔵)と野村和作(靖)の銅像がある。幕末当時皆よく萩往還を歩いたことであろう。

道の駅の駐車場沿いに進み山道に入っていく、熊よけの鈴を鳴らして歩く。悴(かせが)坂駕籠建場をすぎ一旦舗装道に出て、休憩所を左に過ぎ再び山道に入る。石畳が混ざる 道を下っていく。烏帽子岩を通り過ぎしばらく下っていくと視界が開け川沿いの堰堤の道に出る。前方に今日のゴールである明木市の集落が見えてくる。中所橋を通り過ぎたところに殉難三士のことを書いた説明板がある。

下関戦争(米・英・仏・蘭四か国艦隊との攘夷戦)、八月十八日の政変、池田屋の変、禁門の変を経て、1864年、幕府方による第一次長州征伐を向かえ長州藩は、保守派である俗論派が政権を握り、益田・国司・福原の三家老の首を差し出して幕府に恭順する姿勢をとり、収束を図ろうとする。 これに激しく反発した高杉晋作は、諸隊である力士隊と遊撃隊の80名を動かし、長府功山寺で挙兵する。最初は様子を見ていた奇兵隊等の諸隊も加わりその勢力は次第に大きくなり、山縣有朋が指揮する奇兵隊を中心とした諸隊が太田・絵堂の戦いで俗論派の撰鋒隊を破り、更に萩に迫るい勢いを示した。これ対しは萩政府は、鎮静会員(中立派)の代表として香川半助、桜井三木三、冷泉五郎、江木清次郎の四人を一旦山口に引いた諸隊側に派遣して和平工作を図った。その帰り道、不幸にも四人はこの付近でこの行動に反対する俗論派メンバーにで待ち伏せされ襲われた。香川、桜井、冷泉の三名は殺害され、江木は深手を負った。悲劇である。三名を殺害した俗論派のメンバー7名はその後、捕らえられ野山獄で切腹させられた。正義派の政権に変わった長州藩は、藩是を武備恭順とし第二次長州征伐戦争(四境戦争)に突入していく。

萩往還のお地蔵様を右に通り過ぎ旧有料道路、32号線の下をくぐる。旧明木橋があった場所に吉田松陰の歌碑がある。密航に失敗し罪人として萩に護送されるとき詠んだ詩が刻んである。ゴールは目前である。明木橋までくる。彦六・又十郎伝が書かれた説明板がある。毛利氏が関ヶ原の戦いの後、萩に入府して指月山の麓に城を築いたとき怪力の二人は大活躍し、 その功が藩主輝元の目に留まり、竣工後褒美は何が欲しいか聞かれた二人は、明木の郷人に対する口屋銭(物品を萩に持ち込むときに徴収される税金)の免除を願い申し出た。藩公はその奇特な心掛けに感動し、その願いをい聞き入れた。以来、明木の人たちはその恩恵を受けた。

明木橋を渡り、明木市の大通りに入る。萩往還交流施設・乳母の茶屋の通りを過ぎバス停 の時刻表を見ると10分前にバスは既に出発していた。次のバスは1時間30分も待たなければならない。防長バスの特急はぎ号が停車するすぐ上のバイパスのバス停まで行ってみることにする。幸いにも20分後にバスが来る。特急はぎ号に乗車して萩バスセンターまで戻る。



唐樋札場

萩藩の主な街道

八江萩名所図面

「唐樋札場」の概要
唐樋札場は、萩三角州のほぼ中央に位置し、萩城からはじまるお成り道やそれぞれの街道が交差する箇所で「札の辻」とも呼ばれていました。
当地は、藩政時代、萩と山口・三田尻(現在の防府市)を結ぶ「萩往還」や、萩と赤間関(現在の下関市)「赤間関街道」、萩と石見国(石州:現在の島根県)を結ぶ「石州街道」などの基点であり、防長2カ国内の一里塚には「萩唐樋札場より○○里」と記されていました。

多くの人々が集まることから、この地に幕府や藩の掟を記した高札を掲げる高札場(こうさつば)が設置されていました。また、ここでは罪人の晒しも行われていました。「八江萩名所図画」(天保5年・1834起稿、明治25年・1892刊行)には唐樋札場周辺の様子が描かれており、高札場と番所があったことがうかがえます。(現地解説)

アトラス萩前の駐車場から出発する。

大通りを下る。昔に比べ人通りが少なくなったような気がする。

藍場川・小橋筋を通過する。

橋本橋を渡る。

金谷天満宮前を通過する。

萩駅

萩駅駅舎内
金谷天満宮と大木戸(現地解説)
金谷天満宮は、鎌倉時代の長門守護職、佐々木四朗高綱が、大宰府より勧誘したといわれ、享保5年(1720年)藩主毛利吉本の時に再興されました。秋の祭礼は萩二大祭りの一つで、大名行列、踊り車の等の奉納があって賑わいます。また、ここは城下町の表玄関ともいえる大木戸のあった所です。番所には常時番人をおき、日没には治安維持のため城下への出入りはさし止められました。

コスモスの前の道に下る。


横断歩道を渡る。

萩駅駅舎内・鉄道の父・井上勝のことが説明してある小鉄道博物館。入館無料。

中国電力のある通りを下る。


井上剣花坊の碑がある。

大屋の田園沿いの道を歩く。

慰霊碑前の標識
井上剣花坊
井上剣花坊(本名、幸一)は、1870(明治3)年に萩市で生まれた。苦学して小学校教師及び新聞記者となり、1903(明治36)年、上京し日本新聞社に入社した。古川柳の精神を生かしつつも、革新的視点の川柳を発表し、俳句の正岡子規に対し、新川柳の井上剣花坊と呼ばれた。1934(昭和9)年、64歳で死去した。また、妻信子は萩市土原に生まれ、後に川柳を学び、公私ともに剣花坊と歩んだ。1958(昭和33)年、89歳で死去。夫妻の墓は鎌倉建長寺にある。(現地解説)




慰霊碑

大屋川沿いの道を行く。

橋を渡り涙松方向に進む。

涙松遺址
江戸時代、萩城下から山口へ通じる藩主御成街道は、大屋から左へ折れるので城下町の見えるのもここが最後です。松並木の間に見え隠れする萩を見返り、別れの涙を流すと言うことで、ここの街道並木を「涙松」と呼んでいます。幕末、吉田松陰が安政の大獄で江戸へ送られるとき「かえらじと思いさだめし旅なれば、一入(しお)ぬるる涙松かな」と詠んで一躍有名になりました。(現地解説)

女体解剖地跡と一里塚
大屋涙松から鹿背坂までの旧街道沿いに大屋刑場跡と悴坂の一里塚があります。宝暦9年(1759年)毛利藩医・栗山考庵が我が国で最初の女体解剖を行ったのが、この大屋刑場跡です。いまは竹藪におおわれていて刑場死者を供養するための石地蔵が建っています。また、この一里塚(県指定史跡)は、萩市内の唐樋の札場跡から一里のところにあり、現存するもにとしては珍しいものです。(現地解説)


萩往還梅林園を右側に見る。

悴(かせが)坂の一里塚


栗山孝庵女刑屍体腑分之跡
悴(かせが)坂の一里塚
一里塚は、藩政時代萩城下の唐樋の札場を起点として、防長両国の主要道に一里(約四キロ)おきに築かれていた。悴坂一里塚は山陽道と山陰路を結び、防長両国を横断する街道上の、唐樋の札場から最初の一里の地点に当たる。この路は三田尻船場(防府市)が終点で、江戸へに参勤交代にも往復する最も重要ななものの一つであった。塚の周囲を玄武岩の石垣で組み、内に土を盛った小山である。台上に立てられた塚は木であったと思われる。この塚が現在まで残ったのは、元治元年(1864)防長両国の一里塚を取除き常盤木を植え付けることが指示されたが、完全に実施されなかったことと、この街道が旧街道になってしまったためであろう。(現地解説)


道の駅萩往還前の地下道を潜る。


道の駅萩往還に建つ銅像 左から高杉晋作、吉田松陰、久坂玄瑞

左から天野清三郎(渡辺嵩蔵)と野村和作(靖)


左から山形有朋(小介)、木戸孝允(桂小五郎)、伊藤博文(利助)

悴(かせが)坂駕籠建場
藩主一行が領内通行のとき、途中で駕籠を降ろして休息した場所である。
普通は「御駕籠建場」と敬称をつけた。萩往還にはほか釿切・日南瀬・一ノ坂・柊・鯖山に設けられた。此処の駕籠建場作りは駕籠を置く切芝の台二ヶ所と、その周囲に一間半に二間半程度の柴垣を設け、近くに便所を設けていた。道の向こう側には常設の御茶屋があった。これおは正式な御茶屋があった。これは正式なお茶屋があった。これは正式なお茶屋ではなかったが、床やいろりを備えた休息施設であった。建物の痕跡は何一つ残っていないないが、当時の水飲み場と思われる跡がわずかに残っている。(駕籠建場は当時の古図をもとに復元したものである)(現地解説)

悴坂駕籠建場


駕籠を置く切芝の台

明木方向に下る。


烏帽子岩

森を抜け視界開ける。明木の集落が見えてくる。

殉難三士(じゅんなんさんし)
幕末のころ、長州藩は幕府の長州征伐やイギリス、フランス、アメリカ、オランダの四か国連合軍の下関攻撃への対応をめぐって、俗論(保守)派と正義(改革)派に分かれれて激しく対立していました。俗論派が藩政を担うようになると、これおを不満とする高杉晋作が正義派の諸隊に呼びかけて蜂起し、大田絵堂の戦いで俗論派の藩軍を破り山口に本拠をかえました。この頃萩では、高杉ら諸隊に同情を寄せる藩士が結束して鎮静会議員を名乗り、諸隊との和平を進めようとしました。この時、和平交渉の使者として選ばれたのが、香川半介(35歳)、桜井三木三(36歳)、冷泉五郎(35歳)、江木清次郎の4名です。彼らは(1865)2月10日、山口の諸隊を訪れ萩に突入しないように説得しました。藩軍の中には鎮静会議員による和平交渉に反対する者がいました。彼らは事前協議もなしに交渉に行った4人の使者に激怒し、使者の帰りをこの地明木権現原で待ち伏せして、香川、桜井、冷泉を殺害し、江木に深手を負わせたうえ、香川と冷泉の首を悴阪にある烏帽子岩にさらしたとつたえられています。(現地解説)

田んぼの中の川沿いの舗装道を歩いていく。

中所橋の前で一休み。

川沿いの道を行く。


萩往還のお地蔵様

旧有料道路・32号線の下をくぐる。

明木橋と吉田松陰
藩政時代の明木橋は、ここより約1キロメートル上流にあった。幕末の志士吉田松陰は、伊豆の下田で国禁の密航を企てて失敗し、捕らわれの身となって萩へ護送された。その最終日、安政元年(1854年)10月24日、この明木橋を過ぎるにあたり次の詩を作った。

少年有所志 少年志すところあり、
題柱學馬卿 柱に題して馬卿(ばけい)を學ぶ。
今日檻輿返 今日檻輿(かんよ)の返(へん)、
是吾晝錦行 是れ吾晝錦(ちゅうきん)の行(こう)。

「中国前漢の人司馬相如が昇仙橋に大望実現の誓いを書いた故事ををまねて、わたし松陰は少年のころこの明木橋において志を書いたことがある。そして今、檻に入れられて返されてきたが、故郷に錦を飾って帰る思いである。」この松陰の盛んな意気は、やがて松下村塾における子弟の教育を実らせ、明治維新の原動力となったのである。(現地解説)

←吉田松陰短古石歌碑

民家の前に一等水準点がある。


明木橋

明木橋を渡る。

彦六と又十郎
彦六・又十郎伝
四百年あまり昔、明木の郷に石工の技に秀でた怪力無比の二人の青年が在り、居住の地名を用いて、「古泉城の彦六」「管蓋の又十郎」と呼ばれておりました。指月山の麓に萩城が築かれる際、石垣組みの役に召し出された両人は、大きな重い石を易々と動かして、その功績は抜群でありました。藩主輝元公のお目に留まり竣工の暁、褒美に「何なりと望みの物を申せ」破格の恩賞を賜ったのであります。とかく人間は、私利私欲に走ることが多い中にありながら、両人は、明木の郷人に対する口屋銭の免除を願い申し出たのであります。藩公は両人の奇特な心掛けに感動され、明木の郷人に対して口屋銭特免の恩恵を与えられたのであります。以来郷人はこのニ青年のお陰で永らくその特恩に浴して大変幸せました。
二士の没後、郷人は、少林山西来寺の山門の前に石碑を建て、毎年四月十三日に追善の「法華会」を盛大に営んで報恩感謝の誠を捧げ、この麗しい遺志を和やかに称えて今日に及んでおります。

「口屋銭(くちやせん)」とは、萩を取り巻く四つの峠外の明木、山田、福井、大井口から萩に入る米、麦、薪炭、野菜など一切の物資に対する税金で、明木口の分は椿の大屋で徴収されていました。(現地解説)

萩往還交流施設 乳母の茶屋

明木の街

明木・特急便の泊まるバス停でバスに乗りアトラスの駐車場まで戻る。

萩往還トレッキングA 2016.6.01 に続く




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